『暮しの手帖』の花森安治と平塚らいてう

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第二号表紙 イラストは花森安治

日本の暮しをかえた編集者

1948年(昭和23年)、まだあちこちに焼け跡がめだつ銀座の町で『美しい暮しの手帖』が創刊された。

名物編集者であった花森安治は、1911年(明治44年)10月25日、神戸市西部(須磨)の平田町生まれ。祖父の代から貿易商だった父と、師範学校を出て小学生の先生をしていた母の長男で、5人の弟妹がいる。 

父の恒三郎は、もともと開港地神戸の町っ子で、ハイカラ趣味の遊び好き、すすんで家業にはげむというタイプの人ではなかったようなのだ。(花森安治伝)

裕福だった花森家は、当時では珍しくふだんも洋装で、父は安治と妹を連れて、宝塚少女歌劇を観に行った。競馬に興じ、株や相場にも手を出した父は、よその連帯保証人になって財産を失い、さらに家が飛び火で全焼し、一家は一夜にして長屋暮しになった。(略伝「花森安治の履歴書」)

その後は、母のよしのが薬局や荒物屋をいとなみ、夜は和裁の内職にはげむなどして家計を助け、六人の子を育てていった。 

らいてうの『青鞜』の創刊の辞

母の死の前年、1929年(昭和4年)旧制高校入試に失敗した花森安治は、それからの1年間、大倉山の市立図書館(現・神戸市立中央図書館)にかよって、受験勉強のかたわら、図書館の蔵書を手当たり次第に読みあさった。

この閲覧室でたまたま読んだのが、平塚らいてうの論集『円窓(まるまど)より』(1913年刊)だった。

その本で安治少年は、「元始、女性は実に太陽であった・・」とはじまる、らいてう主宰の女性文芸誌『青鞜』の「発刊の辞」に出会った。

しかし、読むには読んだが、とくに感動したわけではなく、感動というよりも「何か勝手のちがった、どう気持ちを片付けていいか見当のつかないものを読んだような気持ち」にとらわれたという。(花森安治伝)


元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような青白い顔の月である。
さてここに『青鞜』は初声を上げた。


『青鞜』の創刊号(1911年)に掲載された、平塚らいてうの『元始女性は太陽であった』冒頭の部分だが、この文章全体はけっこう長くて文庫本で16ページほどある。

八月下旬の蒸し暑い夜に、らいてうは部屋の雨戸をすべて開け放ち、しばらく静坐したのち、夜明け頃までに一気に書き上げた。

当時、坐禅に打ち込んでいたらいてうは、誰にも相談せず、資料も持たず白紙で机の上の原稿用紙に向かい、なんの抑圧も受けずに、ほとばしるように流れる文章だった。


・・・しからば私の希う(ねがう)真の自由解放とは何だろう。
いうまでもなく潜める天才を、偉大なる潜在能力を十二分に発揮させることに外ならぬ。
・・・もはや、女性は月ではない。その日、女性はやはり元始の太陽である。真正の人である。
 




今、女性は月である・・・

そして翌1930年(昭和5年)、生まれ故郷の神戸をあとに旧制松江高等学校に入学。

旧制高校に入って、はじめての夏休みに、母よしのは若くして38歳で亡くなった。安治は19歳だった。

「内職で貯めたお金があるので、それで安治を大学までやってほしい」と父を説得してくれたのも母だった。心臓をわずらったのも、長年の辛苦によって心身ともに疲れはてたせいだったかもしれない。(花森安治伝)


その夏、 母が死んだ。その死顔を見ていると、ふっと「・・・今、女性は月である。他に依って生き・・・」 という文章が、頭にうかんできた。お経の言葉のようであった。数日後、手紙や写真をしまってあった紙箱の一ばん底に、父の写真が紙につつんでしまってあるのをみつけた。芸者らしいのが横にならんでいた。

どうやら、この本と、そのとき一しょに読んだ物理の教科書と、奇妙な取合せだが、この二冊が、それからずっと、ぼくのなかで、コンペイトウのシンみたいに、一つになっているようだ」(一冊の本) 


後年になって花森安治は書いている。

「いまでも、ときどきフロにはいると、アルキメデスの原理を思い出すし、するとこの本を思い出す。神戸の町の晩春のけだるさが体中にしみわたっていく」 

「このごろ、ときどき、神戸の夢を見る・・・気はずかしいことをいえば、母親といっしょに過ごした、その日々の思い出のためだろう」(一本のペン)


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金平糖と『暮しの手帖』

コンペイトウのシンとなる「イラ粉」が 釜を転がっていく時、鉄板に触れた部分の蜜が乾いて少し固いところができる。そこがわずかに出っ張るため、他の場所よりも蜜がつきやすくなり、突起部分が段々と大きくなってイガになる。

手作りの金平糖は、時間をかけて粒が成長して行く・・・


10代の後半ぐらいで接した本が、自分の一部のようになって、後々まである旋律のように浮かんでくる。 

どういうはずみなのか、ある光景や一冊の本が記憶に留まり、それがコンペイトウのシンとなり、時空を転がり粒になっていく・・・


平塚らいてうが初めて『暮しの手帖』に登場したのは、第2号の「陰陽の調和」というエッセイだった。このエッセイの中で、らいてうが「ゴマじるこ」のことを書いたら、ぜひ作り方が知りたいという問い合わせが多く来て、第4号では作り方を披露している。 
 
さらに、平塚らいてうと共に、初期の『青鞜』で活躍した紅吉(富本一枝)が、『暮しの手帖』で長期に渡って童話の連載を始めることになる。

花森安治が藤城清治の影絵と組み合わせた連載は、ニ冊の本にまとめられ出版される。 

『青鞜』メンバーと、『暮しの手帖』が時空を超えてつながっていたことに、不思議な驚きをおぼえる。


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参考に

明治・大正・昭和

明治 1868年(明治元年)~1912年(明治45年)まで 
大正 1912年(明治45年/大正元年)~1926年(大正15年/昭和元年)まで 
昭和 1926年(昭和元年)~1989年(昭和64年)まで

平塚らいてう(1886年~1971)

富本一枝(1893年〜1966年)は、らいてうの7つ下。

花森安治(1911~1978)は、明治の終わりの生まれで、
誕生した年(1911) に、平塚らいてうの『青鞜』創刊の辞が書かれている。

大橋鎮子(1920~2013)は、花森安治の9つ下。

 
★硬派に「花森安治伝」を読みたい方に


花森安治伝: 日本の暮しをかえた男

花森安治伝: 日本の暮しをかえた男

  • 作者: 津野海太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/11/22
  • メディア: 単行本