ブログのきっかけ
昭和の「暮しの手帖」についてのブログを始めたのは、創刊号から70年代まで保管されていた雑誌を、知り合いの方から譲ってもらったのがきっかけです。
特に表紙が素晴らしく、紙質や印刷にも味があり、たいへん手のかかったアート作品に思えたからで、もうこういう雑誌は、この先も作れないだろうと思えたのです。
その時は、『暮しの手帖』の大橋さんや花森さんをモデルにしたNHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」が始まるなど知るよしもなかったのですが・・・。
女子大のころの平塚明
ところで、「あさが来た」の終盤で、平塚らいてうが日本女子大の学生、平塚明(はる)として登場したそうで、何でもドラマの中では、あさに対して「いけ好かない傲慢おばさんだこと」と言ったのだとか。
それで、実際どうだったのだろう?と、『元始、女性は太陽であった・上巻 平塚らいてう自伝(1971出版)』を引っ張り出してみました。
「暮しの手帖」11号表紙から
平塚らいてうが日本女子大に入学したのは明治36年(1903年)のこと。
当時の私立大は、とくに女子大ともなれば経営の苦労がたいへんで、物心両面で後援者の協力を頼まねばなりません。
そういった後援者(政財界の著名人)が学校を訪れると、家政科の学生が中心になって料理などでもてなしたり、接待せねばならず、またそうせざるを得ない当時の校長に同情しつつも、らいてうは反発しないではいられなかったようです。
「すべてを後援者の力にまたねばならない私立学校、とくにまだ反対の多い女子大学の経営がどんなにたいへんかということは、創立の苦心談はもとより、いろいろ話されていることで、わかってはいましたが、これほど自分を抑えた低姿勢をとらねばならないものだろうか、また、この後援者たちに自分と同じように感謝することを、学生たちに押し付けるような校長の口調はどういうものだろうかと、わたくしは校長のご苦労に心から同情しながらも、反発しないではいられないのでした。・・・」
女子大の頃のらいてう
「・・・岩崎、三井、三菱、住友、渋沢、森村、それから関西で広岡、土倉などの財界の当主や、伊藤、大隈、近衛、西園寺などの政界の代表的人物が後援者ということで、なにかの時には学校へ見え、まれには話をきくこともありましたが、この人たちの話は、たいてい内容のないことをもっともらしく引き伸ばしたお座なりのものですから、感心したことなどなく、こういう種類の人たちを、とうていわたくしは偉い人とも、尊敬できる人とも思えませんでした。」
とくに大隈重信の話について「大隈伯はいかにも傲慢な感じの爺さんで、横柄な口のきき方でした。」と呆れていますが、確かに今ならあっというまにマスコミに取り上げられてしまうような演説の内容となっていす。
ほかにも不愉快なことで印象が残っているとして、「あさが来た」の広岡浅子の話もあげています。
「関西の銀行屋、加島屋の当主夫人で、女の実業家として当時知られていた広岡浅子という女傑がありました。学校の創立委員としてたいへん功績のあった人ということですが、熱心のあまりでしょうが、ガミガミ学生を叱りつけるばかりか、校長にまでビシビシ文句をつけたりします。
ある日家政科の上級生に対して、実際生活に直接役に立たないような空理空論は三文の値打ちもない、あなた方はもっと実際的であれというようなことを自分の手腕に自信満々という態度で、押しつけがましく、いかにもせっかちそうにしゃべっているのを聞いてからは、いっそういやな人だと思うようになり、とても学校の、また女子教育の恩人として、尊敬したり、感謝したりするような気にはなれないのでした。・・・」(元始、女性は太陽であった・上巻 平塚らいてう自伝)
権威に対する反発の感情
自伝にあるように、平塚らいてうは、子どもの頃から引っ込み思案で、また大きな声が出にくい声帯の体質があって、口数は少なく、声高に主張するのも人前に出るのも苦手なのですが、同時に「自由の世界を内部に求めようとする求心的な性向」、「自分の気持ちに反したことを強制されることに対しては、相当つよい反抗心をもった子ども」であったようです。
「人の二倍も三倍もおとなしく」という割には、時として度肝を抜くような行動もあり、お茶の水高等女学校の修身の授業をエスケープしたり、後の塩原事件ではマスコミに追っかけられ、スキャンダルにもなりました。
明治の人は、とにかくよく歩き周ったのですが、「夏休みに級友とわらじばきで箱根に登り、大雷雨にあう」という一文もあります。
また、学生時代から座禅に打ち込み、身がまえ、心がまえを独自のものとしていったのが、らいてうの特徴でしょう。
「世間的な権威というものに対して、尊敬する気持ちはおろか、むしろ反発を覚えるというわたくしのこの性向は、なにに由来し、いつごろからわたくしのなかに生じたものか、はっきりわかりませんが、・・・こうした権威に対する反発の感情は、いまに至るまで、いえ、わたくしの生涯を通じておそらくつづくものでしょう。」
(『元始、女性は太陽であった・上巻 平塚らいてう自伝』より)
スタイリッシュな人で、野暮なことは好まない気風、を自伝から感じます。
★上巻は子ども時代から「青鞜」創刊までを収録