花森安治「商品テスト入門」
『暮しの手帖』が日本ではじめて商品テストを公表してから17年目。
第100号の出た昭和44年(1969年)までには、ソックス、マッチ、鉛筆、電球など身近な生活用品から始まって、アイロン、トースター、洗濯機、ストーブ、炊飯器などの家電まで、およそ300を超えるテストが続けられた。
「はじめは手さぐりであったそれが次第にしっかりしたものになっていくにつれて、いろいろな圧力も強くなった。この一種の戦いの歴史のなかでいまはじめて〈商品テスト〉とはなにか。どうあるべきか、それをはっきりいうときがきたとおもう」
という前書きで、100号には、花森安治による「商品テスト入門」という24ページに渡る特集記事が掲載されている。
この記事には8つの見出しがついている。
1. 商品テストは消費者のためにではない
2. ヒモつきでは商品テストが歪められる
3. 暮しへの愛情といささかの勇気と根気のよさと
4. 何でもテストするわけにはいかない
5. 商品のどんな点をしらべるか
6. どんな方法でテストするかを自分たちで考える
7. 商品のよしあしを見分けるメドは何だろうか
8. 商品テストを〈商品〉にしてはいけない
朝ドラ「とと姉ちゃん」でもストーリーに取り上げられたのは、主に1と2の見出しの部分。
商品テストは何のために・・・
「商品テストは消費者のためにあるのではない・・・このことを、はじめに、はっきりさせておかねばならない。」
「たまたま、その商品を買おうとおもっている人には、テストの結果は参考になるかもしれない。テストの結果をずっと見ていると、いくらか商品を見る目がたしかになるかもしれない。しかし、そんな当てにならぬことのために商品テストがあるのではない。」
そんな書き出しで、花森安治の「商品テスト入門」は始まっている。
1950年代後半、白黒テレビ・洗たく機・冷蔵庫が『三種の神器』と言われていた。
1958年(昭和33年)東京タワーが完成し、ミッチー・ブームと呼ばれた皇室のご成婚を機に白黒テレビが普及する。
日本経済が急成長した時期に、電気釜やそうじ機などの家電は新しい生活の象徴だった。
1960年代半ばには、カラーテレビ・クーラー ・自動車が『新・三種の神器』となり、64年に東京オリンピックの開催、66年にはビートルズが来日。
昭和の高度経済成長は、
「いつも何かを買いたくて、うずうずしている人間の前に、まるでこれさえあれば幸せがやってくるような顔をして、新しい商品がつぎつぎに現れる時代」だった。
そういった時代に、〈商品をみる目〉など何の役に立つだろうか、と花森安治は言う。
「このすさまじい商品の洪水は、たとえていえば、水道管にヒビが入り、バルブを締め忘れて、一面が水びたしにしてしまったようなもの。」
「まず、ゆるんだバルブをしっかりと締め、新しいパイプと取り替えることだ。」
商品テスト室のひとつ
『暮しの手帖』の商品テストでは、はっきり商品名をあげて、よしあしを公表する。
たとえば、昭和35年の石油ストーブ。
「残念ながら、これならとおすすめできるものは、この国産6種のなかにはありまえん」と書かざるをえないテスト結果だった。
しかし、その2年後のテストではABCDランクで B の国産品が出て、6年後のテストでは海外メーカーと並ぶ Aランクの国産ストーブが生産される。
「メーカーが、役にもたたない品、要りもしない品、すぐこわれる品、毒になる品を作らなければ、そういうものを問屋や小売店が、デパートやスーパーマーケットが売りさえしなければ、それで事はすむのである」
「なにも賢い消費者でなくとも、店にならんでいるのが、ちゃんとした品質と性能を持っているものばかりなら、あとは、じぶんのふところや趣味と相談して、買うか買わないかを決めればよいのである。」
「そんなふうに世の中がなるために、作る人や売る人が、そんなふうに考え、努力してくれるようになるために、そのために〈商品テスト〉はあるのである。」
(第100号 商品テスト入門)
三つの幸せについて
100号のあとがきでは、創刊号からの22年間をふり返って、『暮しの手帖』編集者の三つの幸せについて、花森安治が書いている。
そのひとつは、雑誌を育て、支える質のよい読者を持ちつづけたこと。
ふたつめは、雑誌のどの号の、どの一頁(ページ)も、筆を曲げなかったこと。
「この雑誌は広告をのせていません、そのために、どんな圧力も感じないでやってこられたのだとおもいます。編集者として〈何ものにもしばられることなく、つねに自由であること〉これにまさる幸せは、ほかにはないからです。」
「そして、広告をのせなくても、雑誌を一冊一冊買ってもらう、その収入だけでちゃんとやっていける、そのことを二十二年間の経験で、ぼくたちは、実証できたと思ってます。」
みっつめは、創刊号を出したときの7人のうち、6人までが100号まで編集の第一線で働き続けていること。
最後に、花森安治自身が編集者の〈職人〉的な才能について書いている。
〈職人〉のところにアルチザン(フランス語 ARTISAN)とルビがふられている。
「一号から百号まで、どの号もぼく自身も取材し、写真をとり、原稿を書き、レイアウトをやり、カットを画き、校正してきたこと、それが編集者としてのぼくの、何よりの生き甲斐であり、よろこびであり、誇りである、ということです。
雑誌作りというのは、どんなに大量生産時代で、情報産業時代で、コンピューター時代であろうと、所詮は〈手作り〉である、それ以外に作りようがないということ、ぼくはそうおもっています。
だから、編集者は、もっとも正しい意味で〈職人〉的な才能を要求される、そうおもっています。
ぼくは、死ぬ直前まで〈編集者〉でありたい、とねがっています。その瞬間まで、取材し写真をとり原稿を書き校正のペンで指を赤く汚している、現役の編集者でありたいのです。」
(第100号 あとがきより)
★『暮しの手帖』の編集長、花森安治さんの自選エッセイ集。
創刊当時を振り返る「なんにもなかったあの頃」、「商品テスト入門」など29篇を収録。