鎮子さん、花森安治と出会う
「とと姉ちゃん」のモデルとなった大橋鎮子さんが花森安治さんと出会ったのは、昭和20年10月なかばのこと。
防空壕のなかで、戦争が終わった後のことをすでに考え、終戦の二ヶ月後には花森さんに出版の相談に行くのですから、鎮子さん、すごい行動力です。
鎮子さんが花森さんに話したこと、ニコライ堂の小さな喫茶店での花森さんの話など、雑誌作りのきっかけは、詳しくは大橋鎮子著「暮しの手帖とわたし」にも書かれています。
銀座から「スタイルブック 1946 夏」
鎮子さんが花森さんと出会った1ヶ月後には、銀座を歩きまわって事務所を借り、翌年の昭和21年には『スタイルブック 1946 夏』を創刊します。
「戦争でふだん着るものには不自由しているが、まだ、昔からの着物を持っている人も多い。その着物を活用することを紹介したい。それには、ぼくが長年考えていた《直線裁ちの服》をまずやっていこう」と花森さん。
キャッチフレーズは、
「タンスの中にしまってある着物で美しい服を」
「洋裁を勉強しなくても誰にでも作れる」
出版社の名前は「衣装研究所」。
メンバーは花森安治、大橋鎮子・晴子・芳子の三姉妹、横山啓一の五人。
着物を使って、実際に直線裁ちの服を作ったのは、鎮子さんたちと母。
そして、三姉妹がモデルになってその服を着て、花森さんが絵と文章を書いていきました。
印刷所は、芝にあった秀美堂印刷というオフセット印刷会社が引き受けてくれて、当時はまだ紙もインクも配給制でした。
新聞広告で大反響のスタイルブック
花森さんは、本を売るには新聞に広告を出すのが一番だと、朝日、読売、毎日、そのほか神戸、徳島、北海道、西日本など地方新聞にも広告を載せます。
幅1.5センチ 、高さ6.5センチほどの小さな広告です。
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たとえ一枚の新しい生地がなくても、
もっとあなたは美しくなれる
スタイルブック 定価十二円 送料五十銭
少ししか作れません前金予約で確保下さい
東京銀座西八ノ五 日吉ビル 衣装研究所
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衣装研究所近くの新橋の駅前はすごい闇市で、銀座通りには屋台が並び、デパートの地下で七輪を売り、焼ミシン修理をしている、食うや食わずの時代。
どんなに、みじめな気持ちでいるときでも
つつましい おしゃれ心をうしなわないでいよう
かなしい明け暮れを過ごしているときこそ
きよらかな おしゃれ心に灯りを点けよう
(スタイルブック 巻頭の文章から)
わずか18ページの薄い雑誌ですが、『スタイルブック』は売れに売れました。
当時、海外のヴォーグ、ハーパース・バザー、エルのようなファッション雑誌は、まだほとんどありません。
新聞広告が出て四、五日すると、郵便局から、書留郵便がぎっしりと入れられた大きな布袋が配達されました。日本全国から送金が届いたのです。
朝から夕方まで、書留の封を切るだけでも大変で、みんな指にハサミタコができるぐらいでした。
「うれしかったのです、うれしかったのです、いまでもあのころのことを思うと懐かしさとうれしさで涙がこぼれます」と、鎮子さんは著書で書いています。
「スタイルブック」は、その年にあと2冊、翌昭和22年に3冊発行しましたが、そうこうしてるうちに、銀座で女の子が「スタイルブック」で大当たりしたという評判が広まり、似たような雑誌が3、40種も出てきました。
衣装研究所の人手も足りず、第六高女の同級の中野家子さん、知人の清水洋子さんが加わりました。
しかし、もっとも力を入れた5冊目の「働く人のスタイルブック」は、あまり売れませんでした。
「服飾デザイン講座」を開く
雑誌をやめたくない・・・
資金を稼ぐためにも、目黒の柿の木坂の洋館を借りて「花守安治 服飾デザイン講座」を開きました。
和服を使った直線裁ち、端布を使ったキルト風のもの、残り毛糸のセーター、敷物などの配色・・・
福島民放社が主催の「服飾デザイン講座」は、須賀川市・福島市、山形市、宇都宮市でも開催。
和服地の反物を、中野家子さんがその場でサッと縫って直線裁ちの服を作り、鎮子さん、芳子さんがモデルになって披露します。
また、『スタイルブック』のバックナンバーや『自分で作れるアクセサリ』『服飾手芸のための図案集』『花の図案集』『あなたのイニシアル』などを会場に並べて売りました。
ずいぶん多くの本を出版していたことに驚きますが、タイトルを見るだけでも、ちょっとページをのぞいてみたくなりますね。
服飾デザイン講座 写真左が花森さん 右が鎮子さん
切符の買い占め
「服飾デザイン講座」の宇都宮会場でのこと。
切符の売れ行きもよく、すでに完売していました。
嬉しくて皆で会場に行ってみると、しかし、主催の新聞社の人たちだけで、時間を過ぎても誰も来ないのです。
びっくりするやら、涙が出るやら、生涯で一番つらかった日と鎮子さんは回想しています。
あとでわかったのは、「洋裁を知らなくても、すてきな服ができる直線裁ち」という題目のためか、当時の大きな洋裁学校が切符を買い占めてしまったのでした。
「花森さんはどんな思いをされたか、そのときは何もおっしゃらず、私たちも何事もなかったような顔をして東京に帰りました。私は花森さんになんにも言えませんでした。花森さんも、このことは誰にも話されませんでした。」いま初めて明かす話として、鎮子さんは書いています。
当初、飛ぶように売れた『スタイルブック』も、似たようなファッション誌が続々と本屋に並び、売れなくなりました。
昭和23年
「新しい雑誌をやりましょう」
「やろう、やろう」
『暮しの手帖』の創刊の火が灯された瞬間でした。
創刊号の目次にのっている7人、花守安治、大橋鎮子、中野家子、横山晴子、大橋芳子、清水洋子、横山啓一、そしてカメラマン松本政利、林重男で『暮しの手帖』は始まったのです。
☆『暮しの手帖』を創刊した大橋鎭子さんが、90歳のとき(2010年)に刊行した自伝。生き生きとした内容で、『暮しの手帖とわたし』をいちばんにお薦めします。
私が持っているのは単行本ですが、こちらはハンディサイズに新装したもの。
【ポケット版】「暮しの手帖」とわたし (NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』モチーフ 大橋鎭子の本)
- 作者: 大橋鎭子
- 出版社/メーカー: 暮しの手帖社
- 発売日: 2016/03/23
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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