『暮しの手帖とわたし』は、とと姉ちゃんのモデルになった大橋鎮子さんが、名編集者・花森安治さんとともに『暮しの手帖』を作り続けたあれこれを、90歳になってから書いた自伝です。
帯のコピーは「暮しの手帖社社長、モデル、編集者、いつだって体当たり 波瀾万丈のしずこさん」
本の表紙は、花森さんのイラスト。
このイラスト、よく見ると「へ〜、そうだったんだ〜」という発見がある面白いイラストなんです。
1958年・夏の編集部
表紙イラストは「アフタヌーン at 暮しの手帖」というタイトル。
Y.hana 1958 というサインがあります。
1958年当時の、暮しの手帖編集部の一コマを描いたものでしょう。

イラストの上のほう、黄色のタオルケットでソファで昼寝中なのは花森編集長。
季節は夏のようです。
「一人前半はたいらげます」と、ギョーザやカレーをパクつく食欲旺盛な部員。
なぜか、靴を片方なくしてしまったカメラマン。
アメ横で購入したジッポーらしきライターで一服、花森さんの傍にも灰皿、昭和は喫煙者の多い時代でした。
シカゴにいる鎮子さんに手紙をタイプライターで、パタパタ、チーン!と打っている姿もあります。(この音、懐かしいなあ・・・)
机のうえには、アメリカの雑誌、ペアレンツとグッドハウスキーピング。

手紙でつづるアメリカ視察旅行
本の装丁に使われているイラストと手紙は、当時、アメリカ視察旅行中の大橋鎮子さんに宛てて、花森さんが送ったものです。
ちょうどこの時期、1958年(昭和33年)の4月に、アメリカ大使館から暮しの手帖社に電話がありました。
「日本のマスコミ、ことに雑誌で活躍されている方をお招きして、その目でアメリカをごらんいただきたい、その候補の一人に大橋さんが入っています。期間は二ヶ月間、参加いただけますか?」
花森さんは「ぜひ行って、存分に見てきなさい。編集に役立つことが必ずある」と参加を伝え、鎮子さんはアメリカ視察旅行へ羽田から出発。
「暮しの手帖」のほかに招待されたのは、「週間朝日」「文芸春秋」「旅」。
当時はまだ、日本人の海外旅行は規制を受けていて、仕事や視察、留学など特定の目的でないと渡航できなかったのです。
(一般的な観光旅行として、自由に外国へ旅行できるようになったのは1964年、東京オリンピックの頃からです。)

表紙の見返しには、花森さんからアメリカの鎮子さんへの手紙。
ニューヨークでペアレンツ賞を受賞
羽田からアラスカ、シアトル、ワシントンDC、ボストン・・・
ニューヨークでは、「ペアレンツ・マガジン」からメダルを授与されます。
鎮子さんのように、女性でパブリシャー(編集者)でプレジデント(社長)が日本でもいることは、「貴方を招待したことは国務省のヒット」とアメリカ人に驚きを与えたようです。
鉄道模型好きな花森さんらしく、手紙には「ロサンゼルス近くのディズニーランドに寄れたら、サンタフェ鉄道の模型が走っている筈ですから、カラーで撮ってきてください」
鎮子さんは、グッドハウスキーピング社などの雑誌社を見学、サンフランシスコ、ロス〜ハワイ経由でパンアメリカンで帰国します。

本の裏表紙にも、イラストの続き。
★「暮しの手帖」ロングセラーのふきんも、アメリカ旅行から生み出された。
