読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

昭和の「暮しの手帖」から

創刊号〜70年代「暮しの手帖」バックナンバーから。珠玉の記事をピックアップ

ホット・ドッグ 内田誠 「暮しの手帖」1949年

1949年 エッセイ

初期の『BRUTUS』を思い出したエッセイ

『暮しの手帖』といえば、食べ物についてのエッセイも個性的だ。

シャンソン歌手、石井好子さんの『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』は、花森安治さんの装丁でベストセラーになっている。


昭和24年(1949年)、平塚らいてうの「陰陽の調和」が掲載された第2号、内田誠さんの「ホット・ドッグ」というエッセイが印象的だった。

ホットドッグの他にも、キャビヤア、マシュマロウ、タッフィ、パップ・コーンについて書いていて、ちょっとした短いエッセイなのに、ハイカラで雰囲気があって、初期のブルータスに似た感じもあると思ったら、内田誠さんは明治製菓の宣伝部勤務でコピーライターあるだけでなく、随筆家、俳人、多趣味な文化人としても名を馳せた方だった。


f:id:Merimaa88:20160808215454j:plain
Hのサインも洒落てる花森安治のイラスト

ホット・ドッグ 内田誠

昔、銀座の、たしか三共の横町あたりだったと思ふが、夜になると、屋台のホットドッグ屋が出ていた。洋文字の看板が下げてあったり、カーテンが縞であったりして、構えからして、ほかの屋台とは違っていた。

珈琲か紅茶かスープか、それ等のうちの一つと、一個のホット・ドッグとで一人前であった。天井にはうまそうなソーセージがつながって下がっていた。
その下で、黒の蝶ネクタイをしめた主人が、パンにマスタードは利かした方がよろしう御座いましょうか、などと聞いたりした。

今でもなつかしく、時々思い出す位だが、この頃偶然に、その黒の蝶ネクタイの主人に会った。もちろん、今はそんなネクタイなんかしめていないが、ちっとも年をとらない。水色のベレエ帽かなんか冠むって、威勢のよい兄さんであったのはたのもしかった。

両人でおおいに往時を追懐した。彼は、銀座の土はどうしても離れがたいから、なんとかして元の所で商売がしたい、と言っていた。



ステート・フェアという色彩映画は、田舎のおまつりで、いろいろの屋台が出てくる。その中にホットドッグ屋があったのは嬉しかった。
しかもクローズ・アップで、とてつもなく偉大なホット・ドッグが写される。
赤いトマトだの、ソーセージだのがパンからはみ出していて、思わず唾をのむのだ。銀座のホット・ドッグ屋に見せたい気がした。

あとで聞くと、アメリカには一尺くらい(30cmほど)の大きさのホット・ドッグがあるそうである。そんな大きいものをどうして食うのであろう。

ホット・ドッグというと紐育(ニューヨーク)のヤンキー・スタジアムを思い出す。スタンドのうしろの、広い廊下にあった、売店のカウンタアの前に立ちながら頬張った奴が忘れられないのだと思う。
そんなことばかり楽しんでいたものだから、いまだに英語は喋れない。
(内田誠 筆者は明治製菓重役)


f:id:Merimaa88:20160318143948j:plain
マリリン・モンローとディマジオ 1954年

画期的な広報誌『スイート」を発刊

内田誠さんは明治製菓の宣伝部で、当時の人気作家や画家の作品を掲載するという、画期的な広報誌『スヰート』を発刊(大正12年)。

また、成瀬己喜男監督の映画『チョコレートガール』(昭和7年)とタイアップして、商品を映画の中に登場させる「プロダクト・プレイスメント」という広告手法を開発するなどの実績も。 


野球観戦とホットドッグのつながりは深く、MBLではフェンウェイ・フランクス(ボストン・レッドソックス)や、シカゴ・スタイル・ドッグ(シカゴ・カブス)、ドジャー・スタジアムで売られているドジャー・ドッグなどがある。
ドジャー・ドッグは、トップクラスの売り上げを記録している。


ちなみに、エッセイの掲載された1949年のワールドシリーズは、ヤンキースがブルックリン・ドジャースをくだして優勝。

当時のチームには、マリリン・モンローと結婚したジョー・ディマジオやヨギ・ベラなどが在籍。 

すごい試合を観戦しながら、ヤンキー・スタジアムでホットドッグを頬張っていたんですね。