昭和の「暮しの手帖」から

創刊号〜70年代「暮しの手帖」バックナンバーから。珠玉の記事をピックアップ

暮しの手帖 中川一政「えのぐ」1957年

『暮しの手帖』第38号(1957年)の表紙は、春らしい明るいイラスト。
中川一政のエッセイ「えのぐ」が掲載されています。
処女作となった「酒倉」が描かれたエピソードとして、貴重なエッセイです。


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第38号 spring 1957

「えのぐ」中川一政

私は此間(こないだ)神戸へゆき芦屋へ行った。
芦屋は大変高級なところだが、実は私は四十年も前、ここで処女作をかいたのである。別になつかしいとも思わないが、その時の友だちがいたので、私の昔いたあたりへ行って見た。

・・・その頃、阪神電車が淋しく通っていただけだが、今は山の方へかけて三通りも電車汽車の線路があるわけで、鄙(ひな)びたところもなくなったし、海岸にも堤防ができて海のながめも松原越しに遠くから見渡されない。


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貧しい書生であった私は、よく一人で出歩いた。神戸まで歩いて汽船の立ち並ぶさまを見にいった。あの船にのって外国へ行ったらと思った。

東京で私を可愛がってくれた船乗りがいて郵船の三島丸の司厨長をしていたのが、欧州航路であったから、何か外国でお土産をかってきてやるが何がよいかと言った時、画具がほしいと言ったのを覚えていて、言ったこちらが忘れていた頃、何日に三島丸が神戸に入港するから来いと、芦屋の私に手紙をよこした。

(第38号「えのぐ」より)


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日本郵船の欧州航路「三島丸」 

何しろ、神戸まで歩いていくのですから、中川一政は握り飯をつくって一人で出かけたのです。

日本郵船の「三島丸」は、エッセイと同時期の1913年、藤田嗣治が渡仏するときにも乗った船で、船上から藤田嗣治が妻に宛てた手紙には、三島丸でのディナー・メニューが同封されていました。

コンソメスープ、ヴィネグレットソースのサラダ、鴨の冷製、ビーフステーキ、サーモンのポアレなど・・・しかも、どれだけ食べてもよいのです。
 
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1920年(大正9年)三島丸でのディナー・メニュー

英国ニュートンの油絵の具

さて、神戸について、メリケン波止場のタラップにたどりついた中川一政を、三島丸の司厨長は洋食で歓待します。

 
司厨長はボーイの頭であるから大変ご馳走をしてくれた。断らなければ次々と料理が出てくる。一生懸命たべてナプキンが下に落ちているのも知らなかった。
司厨長は絵具箱と、その中に一通りの油絵具と筆と油壷といっぱいはいっているのを呉れた。
後年になって考えてみると、その絵具は英国のニュートン製で世界で一番よい絵の具であった。

わたしはこうふんして電車にのって芦屋へ帰った。
次の日、芦屋のとなりの深江の酒倉をかいた。これが私の処女作であって、後年人の手にあったものを買いもどして今持っている。

( 第38号「えのぐ」より)


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酒倉 油彩 板 4号F 1914年

以前に、真鶴美術館での中川一政展のチラシに「酒倉」の絵が、これはメインにレイアウトされた作品ではなかったから、小さくのっていたのですが、見た瞬間に「この絵を見たい」と、真鶴に向かったことがあります。

それだけ、この絵には新鮮な奔放さがあって、エッセイを読んで納得です。


神戸の芦屋のとなり、摂津・深江。
中川一政の処女作「酒倉」はここで描かれました。
1914年(大正3年)、中川一政 21歳、書生をしていた頃です。

1914年の「酒倉」、翌年に描いた2作目の「霜のとける道」が相次いで、当時の新人画家の登竜門だった巽画会展に入選、二等賞を獲得します。

筆の勢いとコントラストの美しい小品「酒倉」、ニュートン製の絵の具をもらった翌日にはもう作品が描かれていたのですね。


こういった絵は描こうとしてなかなか描けないもの。
新井人志氏の解説がすべてを語っていると思います。

「画家中川一政の出発点となった作品。摂津深江(現在の兵庫県芦屋市と東灘区の境)にあった造り酒屋の酒倉を描いた。同年の巽画会第14回展に出品、審査員の岸田劉生に認められて入選する。」

「小さな板切れの上に描かれた作品であるが、技巧や表現方法といったものに感化されず、本人の素朴な心情をただひたむきに傾けた赴きのある作品。」

(中川一政美術館主任学芸員・新井人志)




余談ですが、マッカラーズの翻訳本

昨年、村上春樹訳でカーソン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』が出版されました。

マッカラーズが1940年、23歳で書き上げたデビュー作が『心は孤独な狩人』(The Heart is a Lonely Hunter)で、この原書の出版とほぼ同時に初訳しているのが、中川一政の奥さん、中川のぶと知ってちょっとビックリです。

時代が大戦の前夜であるにもかかわらず、米国の女流作家のデビュー作が、わずか半年後に日本で訳され、出版できていたのです。

そういえば、『結婚式のメンバー』(The Member of the Wedding)が書かれた1946年は、『暮しの手帖』が創刊された年になります。
 

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「話しかける彼等」(心は孤独な狩人)
カアスン・マックカラーズ/著 
中川 のぶ/訳  
中川一政/表紙・装幀  
四季書房  昭和15年12月28日発行

 


結婚式のメンバー (新潮文庫)

結婚式のメンバー (新潮文庫)

  • 作者: カーソンマッカラーズ,Carson McCullers,村上春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2016/03/27
  • メディア: 文庫