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昭和の「暮しの手帖」から

創刊号〜70年代「暮しの手帖」バックナンバーから。珠玉の記事をピックアップ

雑誌をリュックに背負って、本屋をまわった頃『暮しの手帳』1948年

「この雑誌を作りはじめたころは、新しい号がでるたびに、いつも私たち手わけしてはリュックにぎっしり本をつめ、西は三島、沼津から北は宇都宮、水戸まで、ひと駅ひと駅ずつ降りて、本屋さんに本を置いていただきに歩きました。

朝は一番か二番の汽車に乗り、よる新橋まで帰ってくると、きまって九時か十時でした。一番おそいひとのために、みんな帰らないで待っているのでした。

十二月も押しつまった寒い夜、こんな雑誌は売れないよとか、置く場所がないんだとか、その日は運が悪くて、うかがった本屋さん本屋さんで素気なく断られてしまい、背中のリュックが半分も軽くならず、恥ずかしいことですが、帰りの暗い道を、ぽろぽろ悔し涙を流しながら、へとへとになって帰って来たとき、さきに帰った誰かが、おいもをふかしておいて、十時を過ぎたのに、やはりみんなで待っていてくれた、そんなこともたびたびありました。」


『暮しの手帖』創刊から2年あまりたった、第10号のあとがきです。

署名のSは大橋鎮子さんですが、この頃実際は花森さんが書いていたようです。
 



鎮子さんは主に湘南地区

暮しの手帖の創刊号(1948年9月)は一万部刷って、取次店になんとか七千部取ってもらって残りの三千部は、日吉ビルの部屋や廊下に山と積まれている状態でした。

自分たちで本屋さんを回り、店頭に置いてもらおうとお願いするしかなかった訳です。


「さっそく、暮しの手帖をリュックサックに、背負えるだけ背負って、伝票と風呂敷を持って出かけました。

行ったのは湘南方面が大船、鎌倉、逗子、藤沢、鵠沼、辻堂、平塚、大磯、小田原、熱海、沼津まで。
千葉方面は神田、秋葉原、錦糸町、船橋、千葉まで。
茨城方面は取手、土浦、水戸まで。
群馬方面は赤羽、浦和、大宮、高崎、前橋まで。」

鎮子さんは主に湘南地区を受け持っていました。

茅ヶ崎海岸には戦車が走ってた・・・

藤沢、鵠沼、辻堂、平塚・・・あれ、茅ヶ崎が抜けてると思って、理由は分かりませんが、当時の茅ヶ崎は南湖院も連合国に接収されて、アメリカ軍の第95軽戦車中隊が入り、藤沢と茅ヶ崎にまたがる辻堂演習場は、そのまま米軍演習に使われてました。

えぼし岩が辻堂演習地から実弾の訓練に使用され、えぼし岩の形が変形したのは知られている話です。


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南湖の海岸のアメリカ軍戦車 1949年2月

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辻堂海岸での米軍上陸演習 1951年
 
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辻堂海岸には、現在も不発弾への注意を呼びかける標識がある


こういう状況下で雑誌を売ろうとしていたんだ、、 
翌年二号、三号と出していきましたが赤字が続き、「スタイルブック」時代の儲けはどんどんなくなっていきます。

手のひらに五十なん銭か残った・・・

第二号を出した昭和二十三年の暮れのことを、花森安治は後日にこう書いています。


「この年の暮れは、暮しの手帖にとっては、身を切られるようにつらい年の暮れであった。
秋に出した第一号は一万部刷った、これをみんなで手分けしてリュックにつめ、毎日東京を中心に、本屋さんをしらみつぶしにまわって置いてもらった、八千部売れて二千部残った。

第二号は一万二千部刷った、おなじように本屋さんにたのんで置いてもらったが、お金が入るのは早くて一ヶ月かかるから、暮れの支払いには間に合わない。

あちらこちらから金をかき集めて印刷代や紙代を払い、一緒にやっている仲間にわずかの餅代をわけた、借りている銀座のビルの大家さんに大晦日の夕方、闇市で買ってきたみかんを一箱持っていったら、あと手のひらに五十なん銭かが残っていた、それでも気持ちは明るくはりきっていた、あとで聞くと、印刷屋は、もうこの雑誌はつぶれると思ったらしい。」
(第100号「なんにもなかったあの頃」)

「みんながアッという記事」

「いまどき、そんな雑誌を出せば、三号も経たぬ中に、つぶれてしまうと言われました。真面目すぎて売れないだろうとも言われました。止めたほうがいいとみなさんが言って下さるのを、振り切るようにして、第一号を出し、第二号を出しました。

・・・第一号は赤字でした。第二号も赤字でした。今だから申せるのですが、そのために昨年の暮は、正直に申して生まれて初めて、私たち、お餅をつくこともできませんでした。

どうぞ、つぶれないで下さい、というお手紙を、あんなに毎日いただくのでなかったら、どんなに私たちが意地を張っても、やはり第三号は出せなかったことでしょう。」(第5号 あとがき)


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三号で倒産か・・?という状況を救ったのは、鎮子さんの興銀時代の知人の助力で、銀行からお金を借りることができたこと(今の金額で二千万ぐらい)

「みんながアッと思うような記事を載せなくては」という花森安治の言葉に、鎮子さんが持ち前の行動力で、照宮さま(東久邇 成子 ひがしくに しげこ 現在の天皇陛下の姉)に原稿をお願いして、「やりくりの記」として第五号に掲載した記事が評判をよんだのでした。


★当時の元皇族の方の暮しを書いた「やりくりの記」
「暮しの手帖とわたし」に掲載(抜粋)されています。


「暮しの手帖」とわたし

「暮しの手帖」とわたし

  • 作者: 大橋鎭子,花森安治
  • 出版社/メーカー: 暮しの手帖社
  • 発売日: 2010/05/15
  • メディア: 単行本